あなたの言葉の杜切れ間を。

日々のことを綴ったチラシの裏。

避難生活

13日朝、全く寝た気がしなかった。
こたつで寝ているので体中が痛む。喉が乾く。
午前5時、家族会議を開き、福島市へ避難することを決めた。
すべての電源を抜き、ブレーカーを落とし、少しの食料と水、毛布、お金、通帳を持って、飼い猫2匹を連れ、着の身着のまま家を出た。
きっとまた戻ってこれると思って家を出た。
福島市までの道中、家族みんなが無言だった。
先のことを考えると不安しかなかった。
福島市はたくさん人が避難してきていたようで、二カ所ほど避難所を回された。
どこもペットは不可なので、私たちは避難所の駐車場で車中泊だ。避難所では毛布と少しの食料が配られた。水は福島市でも出ないようだ。
その日の深夜に猫が1匹車から飛び出していなくなってしまって、寒い中何度も何度も探した。
結局翌日の昼になっても見つからなかった。
そして三号機が爆発した。
福島県民は三号機がどれだけ危険か知っている。
三号機はプルサーマルで使用するMOX燃料を使っている。使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランを酸化物の形で混合させて作るものだ。
MOX燃料はウラン燃料と比べて中性子が著しく高く危険度が高いといわれ、中性子は金属や30cmのコンクリートでも簡単に通り抜けるといわれているものだ。
私は詳しいわけでもなんでもないが、原発の付近に住む人間として危険なことくらいは知っている。
行方不明になってしまった猫には本当に本当に、謝っても謝りきれないほど、何をやっても償いほど申し訳ないが、もう1匹の猫を連れて会津若松へ避難することにした。
道中、涙が止まらなくて、行方不明になった猫は私の妹みたいなものだから本当に申し訳なくて、死にたくなった。
でもそんなことを言っている暇もなくて、無事に連れて来れたもう1匹を抱きながら先を急いだ。


14日の夕方、会津若松へついた。
どうしてもお風呂に入りたくて、ペットOKのボロい温泉旅館に一泊した。久しぶりのお風呂と布団に涙が出そうになった。
その日の晩、旅館のおじさんに、県から避難区域から避難してきた人には接触するな、とのFAXが届いたと聞かされる。
安全安全と国は言っておきながら、結局はこうだ。
翌15日はお礼を述べて早々に旅館を出た。
友人に教えてもらった避難所へ行くと防護服を着た係りの人に止められ、スクリーニング検査を受けろと言われた。
ガソリンに限りがある中、会津大へ向かうと中学時代の友人に会った。
南相馬市在住だった友人の親戚が一号機の爆発で軽度の被曝を受けたこと、避難区域外の新地町でも軽度の被曝者が出たことを知る。
怖い。怖い。怖い。怖い。
もうそれしかなかった。
スクリーニング検査には随分と待たされた。朝早くに受付をした私たちは2時間弱で済んだが、10時頃に受付をした人は夕方まで待たされたそうだ。
検査前に名前、生年月日、住所を用紙に記入して数十分後にようやく検査。
防護服を着た人の前に立たされ、腕を広げさせられる。
映画やドラマなのでしか見たことがないような丸いマイクのようなものが、目の前で体のあちこちを探るように行き来する。
前、後ろ、腕の内側、掌、靴の裏、顔、喉、頭。
頭のところ、ちょうど左の耳あたりだけ、針が少し振れた。
ここだけ反応ありますね、の言葉が耳から離れない。意味が分からない。
寒くてはマチコ巻きしていたストールの左耳のあたりだけ。
どうしてだろうと考えてたどり着いたのが、携帯電話だった。
親戚が被曝したと言っていた友人から携帯電話を借りて電話したことが頭に浮かんだ。
マチコ巻きしたストールの上から電話したのだ。
後々聞いたら、その友人は服の至る所から放射性物質の反応が合ったらしい。
ストールは洗えば良いと言われたが、ビニール袋に入れて捨てることにした。
その後、なんとか避難所へ入所する事が出来た。
そこは福島市の避難所と比べて、天と地ほどの差があると思う

暖かいし、床に畳まで敷いある。水も止まっていない。
何より食料が十分足りている。
それだけで十分幸せなんだと思った。

南相馬市の隣、浪江町の人に聞いた話だが、津波の被害が大きかったようで行方不明者がたくさんいるそうだ。
でも避難区域なので誰も捜索しない。出来ない。
例え生存者がいたとしても、だ。
浪江町の海にはたくさんのがれきと共に、たくさんの遺体が浮いている。
冷たい海の中、もしかしたらまだ生きている人がいるかもしれない。助けを待っているかもしれない。
でも私たちにはどうすることも出来ないのだ。

地震と津波は天災だが、原発事故は人災だ。私はそう思っている。
知り合いも多く家を流された。
それに加え原発事故での避難。
私たちは帰る家も、場所もないのだ。
避難所生活を始めて8日が過ぎて、もう精神的にも肉体的にも疲れている。
避難先に恵まれた私は食べ物や暖に困ることはないが、やはり固い床で、見知らぬ人を横に寝起きするのにも限界がある。
ガソリンが徐々に流通し始めた今、他県へ移動する人は少なくない。
毎日一家族、二家族と避難所を去り、一家族、二家族と新たにやってくる。
避難所では風邪が流行り、あちらこちらで咳が聞こえる。
巡察に来てくれる医者の診察を受ける人は増えるばかりだ。
医者が来てくれるだけここは恵まれているとは思うが、高齢の方は体力が限界に近い方も多く見受けられる。
子供たちも飽き始め、最近は随分と静かだ。
子供がいるところではもう地元には戻らないと言っている人も多い。
私も戻るつもりはない。
私は甲状腺疾患を患っているので恐ろしくてもう帰れない。
幸いにも、関東に叔父がいるので宛てはある。
だけど、避難している人すべてがそういうわけではないので、行く宛もなく途方に暮れている人も多い。

隣の家族には透析を受けている人がいるが、一番近い病院までタクシーで二千円、3時間の透析で一万円だそうだ。
お金も限られている中では大きな出費だが、命に関わるので4日置きには受けたいと言っていた。
他に喘息の人もいる。5月が予定日の妊婦さんもいる。生まれてそう経っていない赤ちゃんもいる。
他より恵まれた避難所ではあるが大変なことには変わりはないのだ。
みんな、みんな疲れている。


こんなこと言っては元も子もないが、「頑張って」はもうたくさんだ。
これ以上なにを頑張ればいいのかわからない。
正直、私たちが頑張って出来ることは生きることだけだ。